2001/6/1

就農して丸4年、5年目スタート!


 本日6月1日をもちまして、大学卒業後5年2ヶ月勤めた会社を円満退社し専業農家に転身してから丸4年が経過しました。今日から5年目に突入です。

 4年前にピカピカの新農民としての初仕事は、やはり「田植え」でした。それもその年初めての田植えでした。麦作が盛んだった頃の名残からか、私の住む板倉町の北地区は田植えの開始が比較的遅く、6月植えが普通でした。それがこの4年の月日の中で、用水のパイプライン化が整備され、またハイブリッドライス等の早植え品種が導入されるなどして、今では5月初旬から田植えがぽちぽち見られるようになり、6月1日までには7割方の田んぼに苗が植わっている状態になりました。農村は、な〜んも変わってないようで、明らかに変革のための試行錯誤を繰り返しています。

 この15年くらいで生産者米価は半分になりました。米がダメならと始めた施設園芸作物も近年は中国や韓国から安い輸入品が多数来るようになり、売上額が減少してしまうようになりました。現在の輸入農産物は、日本の商社や種苗会社が「開発輸入」という名の下に、日本で流通している品種の種を海外に持ち込み、日本で培われた栽培技術を指導して、日本の10分の1の人件費で生産しているものですから、価格・品質で国産農産物を凌駕してしまうのは当たり前の話です。政府は今夏の参院選対策のためネギ、生シイタケ、い草の3品目についてポーズだけの「暫定セーフガード」を発動しました。セーフガードを発動した農林水産省こそ、開発輸入の斡旋をしていたのにも関わらずです。

 このように書くと、私が強固なセーフガードで守って欲しいと思っていると勘違いされるかもしれませんが、全くの逆です。先日衣料品チェーンでブレークしたユニクロの社長が記者会見で「保護された産業が発達したことはない」と発言されていました。私も同感です。戦後のある時期まで農地解放、食管法、減反政策等はそれなりの意味があったと思いますが、徐々に農業界から活力を奪い、後継者不足を招く一因となってしまいました。細川内閣で米の輸入自由化が決定された時、ウルグアイラウンド対策費と称して、地方に6兆円の金がばらまかれましたが、多くは、農村に似つかわしくない豪華な公民館や、渡った先が行き止まりのモニュメント橋、全く利用されない農道空港の建設など、農業界の構造を大転換させるような事業とはほど遠いもののために泡のように消えていってしまいました。

 やはり、政府の保護・援助を期待するばかりではなく、農民が主体となってこれまでにない新体制を確立して行くべきなのでしょう。上に述べたような逆風の状況下で、「農業を生業として生き抜いていくためのコペルニクス的発想とは何だろう?」・・・こんなことばかり最近考えています。この1年でじっくりじっくり方向性が見いだせればなと思っています。答えはないのかもしれないけど・・・。

 

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