関ヶ原合戦400年記念

関ヶ原探訪記


旅のコンセプト:
天下分け目の関ヶ原合戦から400年を経た今日、関ヶ原をはじめ徳川ゆかりの地を訪ね、「関ヶ原とは何だったのか?」もう一度じっくり考え直す機会を持つ。なお旅の形態は、家康にならい「質素倹約を旨とすべし」の精神で通す。

日程:
2000年7月22日(土)〜25日(火)

準備:
1.家康が西軍の挙兵を聞き、軍議を開いて西上を決した地である栃木県「小山」駅にて青春18きっぷを購入する。
2.司馬遼太郎の「関ヶ原 上・中・下巻」を読み、各武将の人間像を把握し、合戦陣形図等は暗記する。
3.インターネットを駆使して、関連イベント、関連施設、交通手段等を徹底的に調査する。
4.友人にメール連絡して、宿泊のお願いをする。

旅程:
1日目)東武板倉東洋大前駅(20:05)〜栗橋駅(青春18切符使用開始)〜品川駅〜[大垣夜行臨時快速列車]列車泊
 
2日目)[大垣夜行臨時快速列車]〜大垣駅〜関ヶ原駅(レンタルサイクルで移動)=西首塚=福島正則陣跡=小早川秀秋陣跡登山口=脇坂安治陣跡=大谷吉継の墓=大谷吉継陣跡=宇喜多秀家陣跡=小西行長陣跡=開戦地=島津義弘陣跡=石田三成陣跡=決戦地=歴史民俗資料館=徳川家康最後陣跡=東首塚=関ヶ原駅〜大垣駅=決戦関ヶ原 大垣博=大垣駅〜刈谷駅=友人宅=岡崎城=友人宅泊
 
3日目)東刈谷駅〜東静岡駅=静岡葵博東静岡会場〜[シャトルバス]〜静岡葵博駿府城会場〜[新静岡バスセンターから静鉄バス]〜日本平〜[ロープウェイ]〜久能山東照宮〜[ロープウェイ]〜日本平〜[静鉄バス]〜東静岡駅〜藤枝駅=友人宅泊
 
4日目)藤枝駅〜秋葉原駅=秋葉原電気街=秋葉原駅〜栗橋駅〜東武藤岡駅=帰宅

有料施設・交通手段料金一覧:

施設・交通手段

料金

備考
東武電車(板倉東洋大前〜栗橋)

¥240

 
青春18きっぷ

¥11,500

JR全線普通快速列車5日間乗り放題。
関ヶ原駅前レンタルサイクル

¥500

4時間。1日は¥1,000。
関ヶ原町歴史民俗資料館

¥310

 
決戦関ヶ原 大垣博

¥800

関ヶ原町歴史民俗資料館とタイアップ料金。普通料金は¥1,000。
静岡葵博

¥1,000

東静岡会場と駿府城会場共通券。
シャトルバス(会場間片道)

¥180

 
静鉄バス(新静岡バスセンター〜日本平)

¥670

 
日本平ロープウェイ(往復)

¥1,000

ガイドさん付き
久能山東照宮(拝観料と博物館)

 ¥650

後で知ったのだが、ロープウェイとセットだと100円くらい割引があるらしい。 
静鉄バス(日本平〜東静岡駅)

¥560

 
東武電車(栗橋〜藤岡)

¥300

 
合計

¥17,710

 


写真でつづる関ヶ原探訪記:

 今年は1600年に起きた国内最大規模の戦闘が繰り広げられた関ヶ原の合戦からちょうど400年。司馬作品を読んでいても、この関ヶ原にまつわる話題は多く、いろんな作品の中に挿話として入ってきます。合戦後の日本の歴史に方向付けをしたことは言うまでもなく、現代の我々にも意識しないうちに多大な影響を及ぼしているのかもしれません。この節目の機会に、日本人としては、この関ヶ原の合戦の意味を実際現地を訪ね、もう一度よく考えてみねばと考えたわけです。

 今回の旅は、徳川家康の生き方にならい質素倹約を旨とし、新幹線はあえて使わず、青春18きっぷによる普通快速列車で移動しました。そのため、まず東軍の進発地である栃木県の小山で事前に青春18切符を購入しました。家康は、会津の上杉影勝討伐の名目で豊臣恩顧の大名たちを引き連れ、この小山まで布陣してきていました。これは実は、天下取りのため、わざと京大坂を留守にし、石田三成に挙兵させる罠だったのです。家康の思惑通り、三成挙兵の報がこの小山に伝わり、早速、大名たちを集めての軍議が行われました(これが有名な小山評定)。そこで豊臣秀吉に最も恩顧の厚い福島正則が家康に味方することを宣言し、一同団結して、西上して三成を討つことが決せられました。

 旅の当日は、19:50に自宅を出、大垣夜行臨時快速列車の始発駅である品川駅に22:00頃着きました。もうすでに6人並んでいましたが、7人目ならまず座れるだろうとほっとしました。ホームにさっき買った新聞を広げその上に座り、くつろいで列車を待ちました。そのうち列車がホームになだれ込み、席は確保できましたが、結局その日は乗客が少なかったみたいで、23:55の発車ぎりぎりに来ても座れる状態でした。現に、私も4人掛け対面シートの窓際に座りましたが、最後まで向かいの席には誰も座りませんでした。よって、靴を脱いで、シート上に脚を伸ばすことができ、予想していたよりはずっと快適な旅となりました。朝6:38には大垣駅に着き、普通列車に乗り換えて、いよいよ関ヶ原駅に向かいました。

  

 関ヶ原駅には7:16に着きました。私の他は、登山するような格好の夫婦らしき人と温泉に来たようなおばちゃん連中が数人いるくらいでこの時間はひっそりしていました。私は当初歩いて散策しようかと考えていたのですが、この日の朝からじりじり照りつける太陽とあたりの風景の広さを見て、「自転車借りられないかなあ」と駅周辺を探しました。すると、駅から歩いて30秒の所にレンタルサイクル屋があるではありませんか。そこのおじいさんがまたすごくいい人で、下手な観光案内よりよっぽど丁寧に道順などを教えてくださいました。東照大権現様、お導きありがとうございます。だいたい通常はここから反時計回りに関ヶ原を回るのが定番コースなのですが、私は早く着きすぎたために歴史民俗資料館が開館しておらず、定番コースとは逆回りで行くことにしました。

  

 まず、駅前から国道21号を西に向かい、道路沿い右側の「西首塚」に行きました。ここは東首塚とならび、東軍西軍問わず、合戦で戦死した兵士が葬られた場所です。私も自然と手を合わせました。武将だけでなく、足軽雑兵の類まで、利を求めてこの平原を駆けめぐる姿が浮かんでくるような気がしました。この関ヶ原という土地は東西に東山道が走り、北には北国街道、南には伊勢街道が伸びるという交通の要衝になっております。それ故か、関ヶ原合戦よりも900年も前、やはりこの土地で壬申の乱という天下分け目の合戦がありました。しかし壬申の乱が単に皇位継承の、いわゆる貴族の上層部だけの戦いだったのに対し、関ヶ原の合戦は、大名から家臣、足軽雑兵、ついには領民までこの戦いの結果が明日の生活に直結するという側面を持っていました。

  

 次に国道21号を左に折れて、松尾地区に行きます。そこで最初に行き着くのが「福島正則陣跡」です。正則は秀吉の従姉の子であり、賤ヶ岳七本槍の一人です。武勇には優れていたものの、智略や政治感覚、行政能力には欠けていたようです。武功派の正則は文官派の三成を激しく憎み、関ヶ原合戦では東軍の先陣の役を引き受け、深く敵陣近くに布陣し、宇喜多隊と対峙しました。戦後の論功行賞で尾張清洲24万石から安芸49万8千石に転封されました。しかし福島正則の最大の功は、この関ヶ原での戦働きよりも、小山評定での先陣きっての「内府殿にお味方つかまつる」の一言でしょう。どちらに転ぶか悩んでいた豊臣恩顧の大名たちは、この言葉で、あの福島殿でさえも、と徳川方についたと言っていいと思います。しかし正則は後年、故太閤の恩義を忘れられず、大坂方が滅亡した後、幕府にとっては邪魔な存在でしかなくなり、不当な理由で信濃川中島に減封され、ついには廃絶の憂き目にあうことになります。

 

 坂を南に下っていって、名神高速道路をくぐっていくと、小早川秀秋が布陣した松尾山の登山口があります。ここから40分登ったところに「小早川秀秋陣跡」があるらしいのですが、私は断念しました。秀秋は秀吉の妻ねね(北の政所)の甥にあたり、最初豊臣家に養子に入りましたが、秀頼が誕生したため毛利家一族の小早川家に養子に出されました。下ぶくれの可愛い顔をしていたそうですが、思慮が浅はかで気が短く、愚鈍であったようです。この秀秋が合戦中に家康からの鉄砲の催促により西軍を裏切り、1万5千という大軍を大谷吉継隊に向けたため、西軍は総崩れになってしまいました。この裏切りこそ関ヶ原の最大のターニングポイントだったのです。戦後、備前岡山で57万4千石をもらいますが、この裏切りを気にして2年後に狂い死にしてしまい、お家は廃絶しています。

 

 名神高速沿いに西に向かって走ると、「脇坂安治陣跡」があります。小早川秀秋が布陣する松尾山の麓に布陣したこの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の4武将は、名目上は大谷隊に従っていましたが、合戦が始まっても動かず、どちらに味方するか決めかねていました。秀秋の裏切りがはっきりすると、4武将も続いて裏切り、小早川隊とともに大谷隊を攻め破りました。しかし戦後、この4武将にも明暗があり、小川と赤座の2名は事前に裏切る旨の誓紙を出さなかったという理由で、廃絶されてしまいます。小大名の悲哀をそこに感じます。 

 

 

 

 名神高速、東海道新幹線をくぐり、旧中山道を西に進み、黒血川に添って登ったところに「大谷吉継の墓」(左)への登山口があります。5分ほど登ると、東軍の藤堂家が建てたという墓がうっそうとした林の中にありました。また旧中山道沿いには「大谷吉継陣跡」(右)があります。ここは、階段を上っていき、線路を横切り(結構危険です)、目前の神社の奥の裏山を登った所にありました。この大谷吉継は、秀吉の長浜時代に三成とほぼ同時に見いだされ、「百万の軍の軍配を預けてみたい」と秀吉に言わせしめた人です。吉継は、らい患者であり、合戦の頃はすでに皮膚に異変を生じ、顔面が崩れ始めていました。合戦中は小早川秀秋の裏切りを予見し、それに対応した陣を布きました。戦場では馬上ではなく、板輿しに乗って采配を振るい、獅子奮迅の働きをしました。しかし敗戦が確定したとき、醜くなった顔がさらされるのを嫌い、「我が首を敵に渡すな」と言って部下に首をかき切らせ、地中に埋めさせたという逸話が残っています。

 

 国道21号を松尾まで戻り、JR東海道本線の上を越えて、天満山方面に行くと、「宇喜多秀家陣跡」があります。備前岡山57万4千石の城主で、この合戦には1万7千という西軍最大の兵力を投入してきました。父を早くに亡くし、幼少の頃より秀吉に可愛がられ、豊臣恩顧の大名の代表格です。関ヶ原より前、西軍が大垣城に籠もって東軍と対峙していたとき、城下に入るなり夜襲を三成に提案しますが、丁重に断られてしまいます。歴史にたらればはありませんが、ここで夜襲が成功していたらこの勝負も違う結果になっていたかもしれません。宇喜多隊は福島隊と一進一退の攻防を繰り返し、優勢に戦っていましたが、小早川の裏切りによって西南戦線では孤軍となってしまい、四方から責め立てられ、潰滅してしまいました。戦後、宇喜多家は取り潰され、秀家は八丈島に流され、82歳で亡くなりました。この西南戦線は現在は美田が広がり、稲がよく育っています(写真は宇喜多隊前線から笹尾山方向を写したもの)。ここで田んぼ仕事をしていたおばあちゃんに話しかけてみましたが、あっちが笹尾山だ、ここを行くと小西の陣跡だと親切にいろいろと教えてくださいました。関ヶ原のおばあちゃん、侮れません。

 

 天満山沿いに北へ行くと、すぐに「小西行長陣跡」があります。小西行長は、もともと堺の商人であったものを秀吉に取り立てられ、大名にまでしてもらい肥後宇土で20万石をはんでいた人物です。しかし所詮は商人のためか、小早川裏切りがわかると、いち早く北国街道から一目散に敗走してしまいました。行長は熱心なカトリック教徒であったため教義により自害できず、捕縛されて三成らと共に京の六条河原で斬首されました。

 

 

 

 小西陣跡のすぐ隣が「開戦地」(左)です。合戦の日は朝から濃い霧が立ちこめていたため、先陣を抜け駆けしようとした家康の四男松平忠吉と井伊直政の部隊が、敵の宇喜多隊に接近しすぎてしまい、銃撃戦になったことに端を発しました。福島正則は先陣を出し抜かれたことを怒り、自ら馬に飛び乗り、宇喜多隊に向かって激しく攻めたてました。写真(右)は開戦地から見た松尾山です。この山の山頂に小早川の本陣が布かれました。霧のため、恐らく秀秋には開戦したことは銃声によってのみわかったと思います。しかし秀秋は動きませんでした・・・。どういう心境だったのでしょう。私はここでたたずみ、それのみを考えていました・・・。

 

 そのまま北へ進むと、「島津義弘陣跡」が近くにあります。島津氏は鎌倉時代より薩摩・大隅・日向の守護であり、秀吉によって土地を与えられたわけではありません。この大乱でも当初は家康に味方する動きを見せましたが、伏見城城守の件で行き違いがあり、流れのままに西軍に味方することになってしまいました。しかし大垣城での一連の三成の行動に不満を持ち、だからといって東軍に寝返るつもりはさらに無く、この関ヶ原合戦では中立を守って、東西関係なく攻めてくる者を敵とするという、他の大名たちとは一風異なった滑稽な立場にいました。石田方が潰滅していよいよ島津以外は東軍になったとき、この島津隊は一本の槍のような突撃隊形をとり、前代未聞の敵前突破を敢行して伊勢街道方向に逃げました。義弘の甥島津豊久はこの戦で殿軍をつとめ戦死しましたが、強兵をもって知られた薩摩は、この退却戦を成功させ、さらに武名を上げることになりました。戦後も家康によって領土は全く減らされておりません。薩摩島津氏は幕府にとっての仮想敵国として幕末まで続き、関ヶ原の無念を忘れず討幕運動の主導力となります。

 

 国道365号を横断して北に進むと、笹尾山に「石田三成陣跡」(写真右)があります。笹尾山の階段を昇ると、物見台(写真左)ができており、関ヶ原全景(写真下)が見渡せます。西軍の事実上の将である石田三成がここに布陣し、前方左翼に家臣の島左近、右翼に蒲生郷舎を配置しました。この戦は福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの武功派対石田三成ら文官派の側面があり、よってこの石田の陣は東軍の攻撃が最も集中しました。「三成に過ぎたるものが二つある 島の左近と佐和山の城」といわれた島左近の奮迅でよくもちこたえていましたが、小早川の裏切りにより午後2時にはとうとう潰滅してしまいます。三成は再起を信じてここから逃げましたが、ついには捕縛され、京の六条河原で首を切られました。物見台から今の関ヶ原盆地を見渡すと、左に傍観を決め込んだ南宮山、右に裏切った松尾山がよく見えます。三成はこれらの武将が動かなかったこと、寝返ったことをいかに口惜しく思ったことでしょう。しかしここに立って眼をつぶると、戦闘の様子がまぶたに浮かんできて、戦争の悲惨さは置いといて、男子と生まれた以上何十万という軍勢の采配をぜひ振るってみたいと思いました。三成は敗れはしましたが、ある意味実に幸せな男だったかもしれません・・・・。

 

 

 石田三成陣跡の前に、「決戦場」があります。三成という人はその性格から相当、他の豊臣恩顧の武将たちから嫌われていたようです。三成の兵は6千と言われていますが、東軍のほとんどはこの最北端の三成の陣を目指して、兵を囲みました。まあ、三成の首が軍功第1等だということもありますが・・・。こうして西軍が破れ、時代は徳川の世に動いていくことになります。「夏草や兵どもが夢のあと」という平泉で詠んだ松尾芭蕉の歌が、ここでもすごくよく当てはまるなあと感じました。

 

 

 決戦地から南東方向に下っていくと、「関ヶ原町歴史民俗資料館」があります。ここでは大河ドラマ葵〜徳川三代〜「関ヶ原合戦」特別展が開かれています。合戦当日の兵の動きが分かる大型立体模型、ハイビジョンシアターなどがあり、関ヶ原合戦の概略を理解するには打ってつけの場所です。また武具や、書状、屏風絵、パネルなど合戦にまつわる資料が展示されており、その中には山中村(現関ケ原町)郷士の子孫所蔵の「伝石田三成書状」や、関ケ原合戦参戦武将の子孫募集の呼びかけに応じて名乗り出た東軍福島隊の先頭部隊長可児才蔵の子孫所蔵の「可児才蔵の剣」など、本特別展が一般初公開となる貴重なものも含まれています。

 歴史民俗資料館のそばに、「徳川家康最後陣跡」(写真左)があり、「床几場」とも呼ばれています。家康は最初もっと後方の桃配山に本陣を張りましたが、合戦中にこの場所まで押し出してきて、最終的な本陣を布き、その後の采配を大いに振るいました。また戦後はここで敵方の首実検をしました。さらに南東に行くと、「東首塚」(写真右)があります。先ほどの「床几場」で首実検された首をこの場所に埋葬しました。首塚は東西二つありますが、東軍も西軍も隔てなく一緒に葬られております。両首塚は、当時この地の領主であった竹中家が造ったことが、同家の記録に残っています。

 

 関ヶ原をぐるりと回り終わったので、レンタルサイクルを返して、関ヶ原駅から再び大垣駅に戻りました。途中、右手に南宮山が見えました。この南宮山山頂に、大坂城で秀頼を擁している西軍大将毛利輝元の養嗣子毛利秀元、吉川広家2万の軍勢が布陣し、その後方の麓に安国寺恵瓊1千8百、長塚正家1千5百、長曾我部盛親6千6百が布陣しました。実は毛利家の参謀長吉川広家は単独ですでに家康と内応しており、毛利軍は戦わないことを約束していました。安国寺、長塚、長曾我部は前方の毛利軍が動かないため、自分たちも関ヶ原に参戦することができません。関ヶ原合戦が開戦された後、三成から総攻撃の狼煙(のろし)が上がりますが、この南宮山の軍隊はついに一兵たりとも最後まで参戦しませんでした。そして西軍の敗色が決定的になると、一目散に伊勢街道から逃げていきました。このように見てくると、大ざっぱに言えば毛利、吉川、小早川という毛利元就の子孫たちが、関ヶ原の鍵を握っていたことになります。その後、毛利の領土安堵の約束は反故にされ、中国地方を席巻していた毛利氏は、周防と長門のたった2カ国(36万9千石)に押し込められてしまいます。毛利家ではそれまでとほぼ同数の家来を養うため新田開発や殖産工業、貿易に力を入れて巨利を蓄え、幕末の討幕運動の旗手となっていくのです。

 

 大垣駅に着き、駅前通りをまっすぐ南下すると「決戦関ヶ原 大垣博」が開催されています。ここは4つのテーマ館を中心に関ヶ原合戦を様々な角度から紹介したり、当時を思い起こさせる展示をしております。しかし、なぜ大垣でと思うかもしれませんが、歴史に名を残した関ヶ原の決戦は1日で終わりましたが、実は1ヶ月前からここ大垣で東西両軍の戦闘は始まっていたのです。西軍はこの大垣城(写真左)に籠もって籠城戦を覚悟し、東軍は大垣市赤坂町にある岡山に陣を張りました。前哨戦となった杭瀬川の戦いでは、三成の家臣島左近の活躍で西軍が勝利をおさめました。しかし岡山にはすでに家康が着陣し、西軍を関ヶ原へ誘き出す謀略が始まっていました。攻城戦よりも野外戦を得意としていた家康は、三成の居城佐和山を攻めるふりをして、この情報を敵にわざと流しました。三成はこの術中にはまり、東軍に先んじて全軍とも夜間雨中を関ヶ原に向けて行軍していきました。この時、通常の南宮山北の東山道を進まず、南宮山の南を迂回していきました。これは秘密の行軍であったため、火を用いることを禁じ、南宮山に布陣する長曾我部隊のたく篝火(かがりび)だけを目印にして難渋して進んでいったと言います。写真右は大垣城天守閣の展望室から見た南宮山です。南宮山のその向こうにもう関ヶ原盆地があります。

 

 大垣博を後にして、再び東海道本線で東上しました。刈谷駅で大学時代の友人とおちあい、友人の粋な計らいで予定していなかった「岡崎城」(写真左)に連れていってもらいました。岡崎城は徳川家康(写真右)が生誕したところであり、桶狭間の戦いで駿河の今川義元がたおれ長い人質生活から解放された後、初めて独立した居城です。この時19歳でした・・・。訪れたのが17時を過ぎていたため、天守閣内や三河武士の館家康館には入れませんでしたが、今回の旅のテーマである関ヶ原の勝者の生誕地に足を運べたことは非常に感慨深いものがあります。長い人質生活を終えた松平元康(後の家康)は、今川氏からの重税に苦しみながらも武士自ら鍬を持ち、倹約して質素な暮らしをして秘かにお家再興のため金銀・米を蓄えておいてくれた家臣たちに感動し、この木訥(ぼくとつ)で強兵の誉れ高い三河武士団を率いて、天下を目指すことを誓います。そしてその集大成がまさに関ヶ原だったのです。

 

 翌日は、東刈谷駅から電車に乗り、2時間ほどして東静岡駅に降り立ちました。その駅そばで「静岡葵博」が開催されています。静岡葵博はこの東静岡会場と駿府城会場の2つがあり、会場間はシャトルバスで連絡されています。東静岡会場には大河ドラマのロケに使われた城郭ゾーンや駿府城天守閣(1/3スケール)、立体ハイビジョンシアターなどがあり、戦国気分を味わえる構成になっています。しかし月曜日だからかもしれませんが、あまり見物客が無く、がらんとしていました。駿府城会場は東御問(ひがしごもん)・巽櫓(たつみやぐら)が再現されており、内部には徳川や駿府城下に関する資料が展示されています。ただし中はエアコンはきいていませんからとても暑いです。こちらもほとんど貸し切り状態のような客の入りでした。駿府は、幼少期に家康が人質生活を長く送った地であり、また晩年将軍職を2代秀忠に譲った後、「大御所」と称してここ駿府に江戸との二元政治をしきました。駿府の町は、事実上の政治の中心都市として、全国から有能な人材を集めて内政・外交を活発に展開し、繁栄を極めました。家康は、大坂夏の陣で豊臣氏が滅び、江戸幕府の基盤が固まった翌年、この駿府城にて75歳で永眠します・・・。

 

 駿府城会場から歩いて新静岡バスセンターに行き、日本平行きのバスに乗りました。日本平パークウェイは往復とも私一人しか乗客が乗っておらず、貸し切り状態でした。その日本平からロープウェイで「久能山東照宮」に向かいました。先には駿河湾が広がり、眼下は地獄谷、海岸にはイチゴ団地が見え、その壮大な風景は見る者の目を奪います。久能山東照宮は、亡き家康公を祀るため、2代将軍秀忠の命により建立されました。階段を昇っていくとまず東照大権現の額が掲げられた「楼門」(写真右上)があります。さらに奥に進むと「拝殿」(写真左下)があり、見事な総漆塗り、極彩色の彫刻が見られます。そして最も奥に家康の墓である「神廟」(写真右下)がひっそりとたたずんでいます。この神廟は、家康の「我が屍を西の方に向けよ。西の敵に対して徳川家を永劫守護するであろう。」という遺言のとおり、今も西の方角に向いています。家康は将来、幕府に刃向かってくるのが島津であり、毛利であることを予見していたことになります。その予見は的中し、270年続いた徳川幕府は、薩摩・長州の官軍によって葬り去られます・・・。私は墓前にて今回の旅の様子を家康公に報告し、私の関ヶ原探訪の旅を終えました。

 家康がその基盤を築いた江戸幕府は、幕府体制を盤石なものにするため儒学を重用して重農主義を徹底させ、外交的にはキリスト教を禁じ、250年も鎖国をしいてしまいます。このことは戦を無くし、日本独自の文化を発展させたという功もありますが、世界の潮流から乗り遅れ、その反動での明治期の帝国主義、ついには太平洋戦争へと導いていった罪もあります。これらのことすべての起点が関ヶ原にあり、「関ヶ原合戦」は歴史上重要な事件として未来永劫語り継がれていくものと私は確信します。関ヶ原の田んぼで土地のおばあちゃんが私に語りかけてくれたように・・・。


参考文献

参考サイト

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